SFはファンタジーたるか、そしてラノベたるか
最初に言えば、この作品の設定だけを見た時、日本の重厚なラノベ――自家撞着的な言葉だが――を想像した。果たして、このファーストインプレッションが正しかったのかは、今はまだ保留にしたい。
物語は石油が枯渇し、代替エネルギーが用いられる近未来のタイを舞台とし西洋企業の工場オーナー、野望を秘めた中国人労働者、強権を持つ環境省の防疫部隊・白シャツ隊そしてタイトルにもある遺伝子操作で作られた新人類である日本製のねじまき少女これらの主要人物の目的と使命が交差しあい、物語は加速度的に進んでいく。
遺伝子操作で生まれ本物の猫を駆逐し蔓延したチェシャ猫、同じく作られ動力源として使われる象に似たメゴドント、ゼンマイ動力、良質な遺伝子を売買する外国企業、規制されたエネルギー、止まらない海面上昇、発生し続ける未知の疫病。そして何より、人造人間でありつつもロボットではない新人類「ねじまき少女」という存在。
こうしたSF的ギミックを総動員して、一個の世界観を作り上げるが、物語自体はそこに頓着しない。これらは世界にとって自明であって、そこに生きる登場人物にとっては21世紀の我々が車に乗るように、排気ガスの出ないリキシャによって移動し、それをなんとも思わないのだ。
ギミックによってSFを定義できるとして、電脳世界が出ればそれはサイバーパンクであり蒸気機関ならスチームパンクだろう。そうした文脈で読めば、これはバイオパンクに属するのだろうが、この作品はそれだけではない。 決して笑わない女性であり白シャツ隊の副官であるカニヤの段では、SFギミック以外のものが多く見られる。例えばそれは、疫病の恐怖から身を守るタイ人の信仰の対象、科学者であり殉教者であったセウブ師であり、国の遺伝子バンクを担う仏教僧であり、神話的に語られるラーマ12世の治世、カルマや輪廻という言葉、そして絶えずカニヤに語りかける、とある男のピィ(精霊)との仏教問答にも似た対話。この物語はSF的なギミックを外側に、さらにその内側に人の精神性をギミックとして世界観を作り上げている。
だがしかし、これはSFなのか、そうした感想が湧いてきた作品でもあった。本作はSF的なギミックは決して作品の中央には据えられていない。飽くまで外延部に添えられているだけ。本筋は登場人物の心情であり、目的意識であり、自問であり、そして絶えず変化していく環境と政治。人の想像力で構築された世界、というのであれば、これはファンタジーと変わらない。ファンタジーとして読めば、これは素直にファンタジーとしても読める素地があるのだ。
2011年の日本でこれが刊行されたのは意義深いことだと思う。折しも年末、日本SF大賞の候補にアニメ作品である「魔法少女まどか☆マギカ」があがった。タイトルの通り、大別すればこれは魔法を主眼にしたファンタジーに他ならない。だというのに、「まどか☆マギカ」がSFの候補として選ばれた理由はなんであろうか。作中に宇宙論的な要素を含んだからか、歴史改変SF的な所か、それとも一つの宇宙法則を作り出したからか。しかし今あげた全てはギミックに過ぎないし、それが直接的な原因ではないように思う。
あえて言うなら、2010年代のSFはギミックを必要としていない。
明確に必要なのは世界の提示であり、その上でのドラマなのだろう。想像力で構築された世界で、登場人物が思考し、感情に動かされ、物語が進むこと。今それを体現した「ねじまき少女」が、アメリカでネビュラ賞、ローカス賞、キャンベル記念賞、ヒューゴー賞を総なめにし、高い評価を受けたのは、2010年代のアメリカSF界の在り方としては正しかったのかもしれない。 しかしそれは、日本ではアニメ業界が数十年も前から模索し続けたものだ。
SF世界の可視化作業は、アニメの手法をもって安易となり、本よりも映画よりも先進し発展させてきた。それ故に日本SFはアニメとは不可分の関係にあって、その線上にジュブナイル小説があり、ライトノベルがある。本作をラノベのように感じたのは、これが日本SFの相似であって、進化の結果として似通った、親の違う兄弟だからだ。 だからこそ2011年、日本アニメの極致として現れた「まどか☆マギカ」と、ギブスン以来のアメリカSFの壇上に躍り出た「ねじまき少女」は対比されなくてはならない存在だ。良質なSFとして、ファンタジーとして、そして2010年代の新指標として。
それはともかくとして。 今作の萌えポイントは13歳の少女マイ。健気で可愛い。常に無職と隣り合わせの所とか。 あとカニヤ。クールビューティーカニヤ。たまに百合ってる。昔の恋人が美人の女性研究者。 ねじまき少女のエミコ、は、主人公格だけどどことなくウザいのでいいです。 それよりも同じねじまき少女でもスペックの高さを見せつけるヒロコ。これ推しメンね。